「慶長出羽合戦」あらすじ:「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)

上杉(西軍)VS 最上(東軍)

天下分目の「関ヶ原合戦」(慶長5年/1600年)に連動して、山形県内もまた乱戦の坩渦となった。これがいわゆる「慶長出羽合戦」である。

豊臣秀吉亡き後、政治の主導権をめぐって全国の大名は二派に分裂した。徳川家康を盟主とする東軍、石田三成を中核とする西軍。両陣営対立の極限における激突が「関ヶ原合戦」であった。

会津120万石の大名、五大老の一人である上杉景勝は、西軍の重鎮として反徳川の急先鋒であった。

一方、山形20余万石最上義光は家康と強固な盟友関係にあり、上杉攻め奥羽諸大名の主将の役を担っていた。

上杉軍の最上侵攻

この年の7月、家康が大軍を率いて上杉討伐に北上した間隙をついて、石田グループが挙兵する。この報に接した家康は、上杉攻めを中断して上方に発進する。

家康の西上を知った上杉は、最上侵攻を決断し、米沢城主直江山城守兼続を総大将とする2万とも3万とも言われる大軍をもって、怒濤のごとく最上領内に乱入した。

主力軍は狐越の道筋から畑谷・長谷堂を経て山形城へ、左翼軍は最上川沿いに下って寒河江方面へ、右翼軍は上山城攻撃に向かう。更に、上杉領だった庄内からは、最上川をさかのぼる一軍と、六十里越えの一軍が長駆最上領に侵入する。典型的な分進合攻戦略である。

軍事力においてははるかに劣る最上側は、領内各地の出城のほとんどを、放棄するしかなかった。


▲上杉軍の最上領進攻経路 (※クリックすると拡大します)

【参考】Googleマップ

畑谷落城

上杉主力軍が真っ先に襲ったのは白鷹丘陵中の孤城、畑谷城である。城主江口光清ら300余の最上勢は、死力を尽くして戦ったが、衆寡適せず全員城を枕に討死、9月13日、畑谷城は落城する。

勢いに乗った上杉軍は、山形城南西7キロメートルの長谷堂攻略に向かう。

兼続は、14日に菅沢山に本陣を置く。ここを中心に西部山麓一帯は、上杉の陣地となり、一部上杉軍は谷柏方面にも布陣した。長谷堂城を包囲し、合わせて山形・上山との連絡を断つ作戦である。

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長谷堂城の守り

長谷堂城は、標高227Mの独立丘で、比高約80M、頂上を主廓とし、中腹には幾段もの帯曲輪をめぐらし、ふもとを水濠と土塁で囲んだ最上領内屈指の堅城であった。

城将は最上の智将志村伊豆守光安(あきやす)。副将として、剛勇鮭延越前守秀綱が派遣された。

山形攻防の前線須川東岸には、吉原から沼木、飯塚、椹沢付近まで後詰めの軍を配し、上杉軍の渡河攻撃に備えた。

長谷堂が陥落すれば、山形は風前の灯となる。長谷堂城を死守すべく、最上方は全力を挙げて上杉軍と渡り合った。こうして実に15日間、長谷堂付近を舞台として、死闘が繰り広げられた。

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戦った最上の戦士

地理不案内の上杉勢に対し、最上勢は地の利を得ている。

長谷堂勢200余人が、突如上杉陣に夜討ちをかけて首150を取った、攻め寄せる敵軍を近くまで引き寄せ、山上から鉄砲を乱射して大損害を与えた、などと書いた古記録もある。

9月29日には「朴の木屋敷」の戦闘で、上杉軍一方の将、新影流の達人上泉主水(もんど)泰綱を討ち取るという大戦果をあげたりもした。

もちろん、最上方にも多くの戦死者が出た。村木沢の加藤掃部(かもん)、山辺町要害の佐藤理兵衛などは、長谷堂合戦に出陣し、華々しく活躍して討死を遂げたと伝えられている。

戦いの終わり

だが、出羽合戦開始直後の9月15日、関ヶ原では東軍大勝利で決着がついていた。その報せが両陣営に届いたのは9月29日ごろとされる。上方の大勢が決着した以上、局地戦は無意味となる。

10月1日、兼続は全軍退却を命じる。

ここぞとばかり義光は、みずから陣頭に立って全軍を指揮し、富神山周辺は激烈な追撃戦の修羅場となった。

この戦いで義光の兜に敵弾が命中、側近の家臣が銃弾に貫かれて即死した。戦死者は、上杉方1580、最上方623と、諸記録はほぼ一致して揚げている。伊達から派遣された援軍も最上勢と協力して戦い、湯野目民部をはじめ30余人が戦死したとされる。

兼続の戦いぶりに、義光は「さすが直江、見事。謙信以来の武勇の伝統が今も残っている」と称賛を惜しまなかった。

こうして、両軍が死闘を繰り広げた長谷堂の戦いは終わりを告げる。

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合戦のあとで

徳川家康が後顧の憂いなく、関ヶ原合戦に全力を傾注できたのは、最上義光が上杉を牽制したからだと言われる。その点で、半月もの長期間にわたって上杉軍を釘づけにした「慶長出羽合戦」は、大きな意味があったといえるだろう。

合戦後の論功において、義光は33万石という異例の加増を受け、置賜を除く山形県全部と秋田県南部を含む57万石の大大名になった。

合戦後の最上時代は、新たな山形の夜明けであった。都市山形はここからスタートした。平和を謳歌する領内は、産業、経済、文化、各面にわたって大きな飛躍を遂げた。「最上百万石」と称される「山形の黄金時代」がここに現出したのである。

長谷堂城を守り抜いた志村光安は、酒田3万石の城主に栄転し、港町酒田の建設と繁栄のために力を尽くした。

上杉氏は米沢30万石に減封されるが、直江兼続は藩政を確立し、米沢の街づくりに大きな功績を残した。

長谷堂地内、国道458号線のかたわらにある「主水塚」は、敵将を惜しみつつ、敵味方の隔てなく手厚く弔った山形人の心を、今も語り続けている。

(片桐繁雄)
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