▼鉄砲の威力
◆◇◆鉄砲の威力◆◇◆

 ヨーロッパ渡来の鉄砲が組織的集団的に使われた嚆矢は、織田信長の長篠の戦い(1575)とされているが、慶長五年(1600)の長谷堂合戦でも鉄砲はフルに活用された。
 義光は、長谷堂への応援として「小筒足軽二百余人」を派遣したと『羽源記』にあるが、総数がどれくらいかははっきりしない。
 伊達政宗が山形に派遣した援軍には「鉄砲四百五十四丁」が含まれていたと、水沢の留守家文書には書いてある。到着が遅れたといえども、この加勢が最上勢を元気づけたことはいうまでもあるまい。
 直江兼続は、長谷堂城を攻めあぐみ、主君景勝に兵力増員を要請する。景勝は直属鉄砲隊500のうち、300を派遣したらしいと、これは9月26日付け伊達政宗の手紙に、敵方の捕虜から聞いた話として書かれている。
 当たり前かもしれないが、この時代ともなれば、鉄砲こそ戦いを左右する最重要武器だった。
 10月1日の上杉軍撤退の時は、上杉鉄砲隊が華やかに活躍する。
「種子島の中筒鉄砲」の達者な兵を50人ずつ4組に分けて山中にひそませ、追撃する最上兵に雨霰と撃ちかけたという。これに辟易してひるんだ隙に、上杉軍はさあっと引き退く。見事な戦法だったらしい。
 陣頭に立った義光は、この時兜の真っ向を撃たれた。義光の側近、堀喜吽斎は、左肩先から右胸まで射ち抜かれて即死した。志村籐衛門も主君の身代わりのごとくになって、戦死した。
 上杉方、前田慶次の、赤柄大身の槍を振るっての奮戦は有名だが、実際は鉄砲にはかなうまい。新影流の剣豪上泉泰綱といえども、部下が鉄砲で追い散らされて独りとなっては、腕の見せようもないだろう。
 ところで、こんな言い伝えが長谷堂にはある。寄せ来る上杉の軍勢を山上から俯瞰射撃しようとすると、鉄砲にこめた弾丸がコロコロと抜け落ちてしまって、なかなかうまく射撃できなかったという話である。
 これなどは旧式の鉄砲だったのであろうか。それとも、根も葉もない民衆の語りぐさにすぎないのだろうか。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより10/研究余滴3」より



2006/10/13 10:14



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