▼最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】
【駒姫/こまひめ】 〜悲劇の美少女〜 
  
【1】
 文祿4年(1595)8月2日、立秋を過ぎて一ヶ月もたつのに、京都は厳しい残暑が続いていた。
 この日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。
 処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。
 秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿(織田信長の妹お市の方の娘)にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、天正19年(1591)12月にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。
 ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月に、淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。
 秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙を買うことがしばしばだったという。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。これが、文祿4年(1595)7月15日であった。
 豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日、愛児秀頼(お拾い様)への忠誠を誓わせる。 「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。
 その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。その文書は今、岡山市の『木下家文書』に収められている。

【2】     
 秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。その中に駒姫(聚楽第では「おいまの方」と呼ばれた)が入っていた。
 義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。後述のように、淀殿を通して嘆願したところ太閤も無視できず、「尼にして寺に入れよ」と命ばかりは許したというが、これは創作の域を出ないだろう。
 実際のところ、義光や伊達政宗も秀次と親しく、聚楽御殿にしばしば出入りしていたという理由でもって、閉門謹慎を命じられていたのだから、娘の助命嘆願などできない立場だったかもしれない。
 妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。罪なくして斬首の刑に処されると知ったとき、彼女等の悲嘆はいかばかりだったか。泣いても嘆いても、助かる術はなかったのだ。
 8月1日、女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。
 駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。
 同2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎(愛知県)上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録(駒沢大学、粟野俊之氏のご教示)によると、引き回しは次のようであった。
 車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。
 駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳、駒姫をふくめて4人であった。
 以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。
 小瀬甫庵『太閤記』によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。
 市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。

【3】
 殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。
 「五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と『太閤記』には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。
 おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。
 最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。
 第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。
 第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。
 処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。
 「第十一番に、お伊万(いま)の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、『鎌倉で尼にせよ』と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」
 「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」と、これは『出羽太平記』の記事。
 駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。
 瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。
  罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣(赴)かば、
  五常の罪も滅びなんと思ひて   伊満(いま)十五歳
    罪を切る弥陀の剣にかかる身の
     なにか五つのさわりあるべき
 「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」
 30余名の処刑は申の刻(午後4時ごろ)まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。
 見物に来た人たちは、
 「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと『太閤記』は語る。
 その夜、京都は10日ぶりに雨になった。太陽暦では9月5日、そろそろ秋の気配がただよう季節になっていた。

【4】
 人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。
 この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。
 義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(『奥羽永慶軍記』ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。
 その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。
 不幸は、続けざまに義光を襲う。
 駒姫死後の27日(ふたなのか)めにあたる8月16日、妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と『最上家代々過去帳』に記された女性である。
 20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。
 しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。
 文祿4年8月は、義光の生涯で最も苦しい秋であった。

【5】
 秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、秀吉側……石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府……は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。
 京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ……最上家存亡にかかわる一大事である。 
 おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日に嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。
 「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」
 願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。
 7月15日秀次切腹。20日に秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日に、今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。
 理不尽とは、こういうことを指すのだろう。
 だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。
 後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。
 「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」
 義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(『永慶軍記』)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。
 それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。
 五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。

【6】
 京都人にとって、出羽山形は遥かな異郷だった。遠い片田舎の山形から出てきて、人臣最高位の関白・豊臣秀次の邸に迎え入れられたのも束の間、悲劇的な生涯を閉じた駒姫のことは、当時大きな話題になったと思われる。傍証として、二つの事例をあげよう。
@甫庵『太閤記』の記事
 駒姫らが処刑された翌年(慶長元年/1596)9月、国交回復のために明国の使者が伏見城に秀吉を訪問したとき、歓迎の宴が盛大に催された。宴の後の茶の席で、点前に出たのは施薬院全宗(やくいん・ぜんそう)だった。これを見ていた富田一白は、小さな声で「茶をもてなすにしても、小督の御方か、おいまの御方のお点前なら、ひときわ興趣があっただろうに」と、かたわらの人に語ったという。全宗も一白も、秀吉側近のすぐれた教養人である。
 「小督」は、『平家物語』で「宮中一の美人、琴の上手」、「峯の嵐か松風か/たづぬる人の琴の音か」と歌われた「琴の音」の主である。あるいは、徳川秀忠に嫁して、千姫(豊臣秀頼の妻)や後水尾天皇の后・和子[まさこ]を産んだ女性「お江よの方」(「小督」とも呼ばれた)かもしれない。どちらにしても、気品、容貌、立ち居振る舞い、すべてにおいて最高の品格と優雅さをもった女性だった。
 「おいま」は駒姫である。彼女が「小督」と並べられたのは、駒姫がいかに美しく雅やかな女性として評判になっていたかを物語るといえるだろう。
A仮名草子『恨の介』の挿話(富沢学園理事、菊地俊彦氏のご教示による)。
 『恨の介』は、作者不詳の読み物で、幕府旗本武士と宮中女房の恋愛と情死をテーマとしたものであるが、その一部に三条河原の処刑場面が出てくる。
 30余人の女性たちが刑場に下ろされ、みな秀次の死骸を見て涙にむせんでいるとき、「中でも出羽の国の住人、最上殿の御娘、おこぼの上臈と申す方は、御年十六歳にておわしますが、涙をとどめて」こう語った。
 「この涙は、関白様から賜りました嬉しいお言葉や熱いお情けが、今更のように思い出されて、とまらない涙なのでございます。わたしたちを見守っておられる皆様も、けっして自分の死を嘆き悲しむ涙だとは、お思いなさらないでくださいませ」
 こう言ってから、一首の和歌を秀次の亡骸に手向ける。
 「南無阿弥陀 蓮(はちす)の露とこぼるれば 願ひの岸に到る嬉しき」
 これを見た女性たちは、われもわれもと和歌を作って手向けたので、秀次の死骸も動くばかりに見えた。やがて「おこぼ」は、衣の下から守り刀を取り出し、切っ先をくわえ「南無阿弥陀仏」の一声を最後に、うつ伏して死ぬ。残った女性たちも次々と自害する。
 このようなエピソードである。「おこぼ」とは、創作上の仮の名であろう。
 『恨の介』は、慶長末年(1615)以前の成立とされ、だとすれば、義光在世のころに、駒姫ははやくも物語の人となっていたわけである。最上家の姫君のうわさが、京都町衆の間に広まっていた故に、創作文学の中にまで取り込まれたと考えてよい。

【7】
 『奥羽永慶軍記』では、駒姫と伊達政宗との小さな関わりが語られている。
 天正9年(1581)の秋、最上家に女の子が生まれた。たまたまその日、少年政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材に和歌の贈答をした。
 「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月  政宗」
 「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月  義光」
 義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこれを採らず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」と名づけたという。
 義光は、祝いの連歌会を催そうとした。ところが、山形には連歌のできる者がいなかった。町人でもだれでもよい、歌の道は身分の上下を問わないと、町奉行に捜させたが連衆(連歌参加者)となる者が見出せず、連歌は沙汰止みとなった。
 駒姫が亡くなったとき、「誕生ノ祝儀連歌ノ止ムモ不吉ナリ」と政宗は語ったという。可憐な従妹の悲しくはかない運命を、政宗も心を痛めて受け止めたのであった。
 一方、この悲劇を父・義光の責めに帰そうとする見方もある。伊達一門の伊達成実は、次のように書いた(『成実記』より意訳)。
 「義光は、秀次公が最上在陣のみぎり、息女を差し上げた。大名に似合わざるやりかたと、世間で取り沙汰していたところ、今度のこの始末だ。天下の嘲弄、尋常ならず」
 確かに結果的には悲惨な結末になったわけだが、当時の状況を考えれば、豊臣政権の後継者たる青年関白から娘を所望されたとき、果たして断り通すことができるかどうか。実際その場に立ったら、それは不可能というしかあるまい。
 「天下の嘲弄、尋常ならず」は「ざま見ろ」というに近い、悪意の言葉である。これほど悪し様に書けたのは、『成実記』が義光亡きあと、最上家改易の後に書かれたものだからであろうか。

【8】
 三条河原の事件は、刑死者の人数・年齢・辞世の和歌など、異説が少なくない。
 駒姫の年齢についても、15、16、19などの説(数え年)がある。しかし、史料として重視される尊祐メモと瑞泉寺縁起は、ともに15歳となっている。また『永慶軍記』では、伊達政宗15歳の年(天正9/1581)に駒姫が生まれたとされているから、刑死した1595年には15歳だったことになる。やはり、15歳が正しいのだろう。
 駒姫の辞世にも別伝がある(他女性の作も文献によって違うものがある)。
 「罪を切る弥陀のつるぎにかかる身の……」が、山形ではよく知られているが、この和歌は後代の代作とされ,仏教思想が強調されて、若い女性らしさがなくなってしまった。ところが『太閤記』では、次の和歌が掲げられている。
 「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」
 「現実なのか夢なのか、それさえわからないこの世の中に、長く住むことなく、私はあの世に帰るのでしょう。澄むことなく、寄せては返る白川の水のように」
 このほうが若くて世を去らねばならない女性の心情が、痛々しく表れているような気がする。「すまでぞ」は「住むことなく/澄むことなく」二重の意味をもつかけ言葉。「白川」は鴨川に東から合流する川で、刑場となった三条あたりも、当時は「白川」と呼ばれていたものらしい。辞世29首の中には「白川」を詠み込んだものが4首ある。
 なお、これら辞世和歌は覚悟をきめた女性たちが前もって詠じておいたものを、1巻にまとめたものだということである。
 もう一つ。『太閤記』によれば、駒姫のほかにもう1人、山形の女性が処刑されている。 第25番「おこちゃの御方、廿歳、最上衆なり」
 濡れぎぬをきつつなれにしつま故に 身は白川の淡(あわ)と消えぬる
 「謀反人という濡れぎぬを着せられて死んだ、私のなれ親しんだ夫(秀次)ゆえに、わが身は白川の泡となって消えてしまうのです」
 これによれば、山形の女性2人が同じ時に処刑されたわけだが、「おこちゃの方」とはどんな身分・立場の女性か、手がかりがない。駒姫につき添って聚楽御殿に入った女性だろうという想像もあるが、そう考えるのがいちばん妥当かもしれない。

【9】
 山形市緑町、浄土真宗の専称寺に駒姫の墓がある。境内の最も奥まった一隅に、ひっそりと立つ五輪塔がそれである。駒姫の母もこの寺で弔われているはずだが、墓は建立されていない。三周忌にあたる慶長2年(1597)、義光は妻と娘の画像を寺に寄進した。 駒姫の画像は見ることがむずかしいが、夫人画像は山形県有形文化財に指定され、さまざまな図録類に掲載されているので、それで見ることができる。
 庫裏の一部には、駒姫の居室を山形城から移建したという一室がある。板襖には、400年余の歳月を経て色彩・描線は薄れているが、今も繊細な絵が見て取れる。
 義光は折に触れてこの寺を参詣したといわれ、本堂の前庭には「義光公駒つなぎの桜」と名づけられた桜樹がある。春ごとに薄くれないの花を咲かせるしだれ桜である。
 義光は、還暦を迎えた慶長11年に、京都で造られた梵鐘をこの寺に寄進した。
 年老いてもなお深まるばかりの、深い嘆きをこめたものだろう。山門を入って左側にある古風な鐘楼と刻銘明らかな梵鐘と、いずれも県指定文化財である。
 駒姫の墓は、京都三条大橋西たもとの浄土宗瑞泉寺にもある。
 四条の繁華街へ下る町筋の、清楚で品のいい寺である。豪商角倉了以が、舟運の便を図るため高瀬川(森鴎外の名作でも知られる)を開削したとき、女性たちを悼んで刑場跡地に建立したものだという。了以は、連歌を通じて義光と親しかったから、駒姫のことも聞き知っていたのであろう。
 墓地は、秀次の墓を正面に、一族妻子と殉死した家臣ら合わせて49名の墓碑が並んでいる。その中に、駒姫の墓もある。
 「山形の方々が駒姫様をお詣りに、よくお見えになります」
 早春二月に参詣したとき、紅梅が春雨に濡れている墓前で、住職はそう語っておられた。 山青く、水清く、空は高く澄みきった、うつくしい山形。この地に生を享けた可憐な駒姫が、ふるさとを遠く離れた京都で、悲運の死を遂げなければならなかったのも、歴史に翻弄される人間の、如何ともなし難い宿命だったのであろうか。
 古典文学に登場する最初の山形人は、駒姫らしい。話題になることが多いので、やや詳しく書いてみた。
■■片桐繁雄著

2008/05/23 09:50



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