「関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―」小和田哲男:「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
「関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―」小和田哲男
関ヶ原合戦と最上義光 ― 義光宛家康書状を読み解く ―

【はじめに】
 今年(西暦二〇〇〇年)は、関ヶ原の戦いからちょうど四〇〇年ということで、関ヶ原の戦いに対する関心の度が高くなっている感じがする。そこで、″東北版・関ヶ原″などといわれる長谷堂城の戦いにからめ、そのときの最上義光の動向を追いかけてみたい。
 周知のごとく、家康は、関ヶ原の戦いを前にして、諸大名に実にたくさんの書状を出しており、慶長五年(一六〇〇)に入って、戦い直前九月十四日までの分だけでも一六九通を数えている。書状の内容は、恩賞を約したものもあれば、上方での戦況を報じたものもあり、作戦上の指示を与えたもの、さらには東軍へ誘ったものなどまちまちであるが、これら政治工作、すなわち、根まわしが進められたことを意味する。
 そこで、ここでは、家康から最上義光に宛てられた書状を通して、義光が、家康の考える大きな関ヶ原戦略の中で、どう位置づけられるのかを見ていくことにしたい。なお、書状については読み下しにして引用した。原文は、中村孝也編『徳川家康文書の研究』中巻にあたっていただきたい。

【第一報 七月七日付】

 急度申し入れ候。仍って会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候。その表の衆、同心有り、御参陣有るべく候。然者、最寄(前カ)申し候如く、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候。猶、津金修理亮・中川市右衛門申し達すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月七日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 家康は、六月十八日、伏見城を発し、会津討伐に向かった。「五大老」の一員であるにもかかわらず、上杉景勝が会津に引っこんだまま、領内の軍事強化を進めていることを、「豊臣家に対する謀反」と判断したためである。もちろん、家康の腹の中には、畿内を留守にすることによって、石田三成の挙兵を誘うという思惑もあった。
 七月二日に江戸城に入った家康が、七日付で最上義光に出した書状がこれである。ちなみに、会津攻めにあたって家康が定めた部署はつぎの通りである。
 
 白河口   徳川家康・秀忠および東海・畿内の大名
 仙道口   佐竹義宣
 伊達・信夫口 伊達政宗
 米沢口(最上ロ)最上義光と仙北(最上川以北)の諸大名 
 津川ロ(越後ロ)前田利長・堀秀治・同直寄・村上義明・溝口秀勝

 七日付書状に、「猶」としてみえる津金修理亮と中川市右衛門の二人は、家康の家臣で、このとき、使者となって山形に赴いている。もっとも、この二人は、単なる使者ではなく、家康から最上家に送りこまれた軍監のような立場だったのではないかと思われる。というのは、同じ七月七日付で家康がこの二人に宛てた覚書が「書上古文書」にあり、そこに、会津へ攻め入るときには義光を先手とすること、戦いになったときには兵糧を義光から借りることなどが指示されているからである。
 そして、家康は、予定通り、七月二十一日に江戸城を出陣し、会津攻めに向かった。ところが、二十二日、二十三日と軍を進める内に、三成挙兵が次第にたしかな情報として入ってくるようになり、二十三日、下総の古河に着いたところで、進軍中止を指令した。それを物語るのがつぎの義光宛第二報である。

【第二報 七月二十三日付】
                   
 急度申し入れ候、治部少輔(石田三成)・刑部少輔(大谷吉継)才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿三日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 この文書は、家康が会津討伐中止を指令した一番早いものである。このあと、二十四日に家康は下野小山(おやま)まで進み、二十五日、有名な「小山評定」を開き、そこで、反転して畿内にもどり、石田三成を討つ作戦を決めている。そして、家康自身、二十六日に小山の陣を引き払い、八月五日に江戸城にもどるわけであるが、その間、諸大名に精力的に書状を出している。つぎの第三報もその一つである。

【第三報 七月二十九日付】

 急度申し入れ候。仍って上方奉行衆一同の者、鉾楯の由申し来るに付て、会津の閣、先ず上落せしめ候。併、中納言(秀忠)差し置き候条、彼表働の儀を相談尤に候。猶、後音の時を期すべく候。恐々謹言
(慶長五年)七月廿九日   御諱御判(徳川家康)
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「古文書集」十)

 ここで注目されるのは、会津のことはひとまずさしおいて、まず上方にもどり、三成を討つことにしたことを義光に伝えていることと、「秀忠を押さえとして残したので、今後のことは相談するように」といっている点である。
 つまり、七月二十九日の時点では、家康は秀忠を残すつもりでいたことがわかる。事実、秀忠軍が下野宇都宮を陣払いしたのは八月二十四日であった。そのあと、代わったのが結城秀康ということになる。
 江戸城にもどった家康は、何と二十六日間もの間、動こうとしなかった。その間、東軍先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが東海道を西に攻めのぼり、八月二十三日には岐阜城を攻略している。家康から義光への第四報はそのことにかかわるものである。

【第四報 八月二十七日付】

 急度申し入れ候。去る廿三日午の刻、岐阜の城乗崩し、中納言(織田秀信)兄弟一人も洩らさず撫切申す由注進候条、書状持たせ進せ候。政宗より参るべく候。我等父子も出陣申し候間、万事そこもと御行仰せ付けられ給うべく候。委細(今井)宗薫申すべく候間、具にする能わず候。恐々謹言  
(慶長五年)八月廿七日   家康御判
       出羽侍従殿(最上義光)
                     (「譜牒餘録後編」四)

 家康はこのように、東軍先鋒の戦いの模様を義光に報じており、翌日にも、第五報(八月二十八日付)で三成らが美濃に出てきたことを伝えている。

【おわりに】
 九月十五日の関ヶ原の戦いを前にした義光宛家康の最後の書状は九月七日付で、これが第六報ということになる。
 そこでは、三成らを大垣城に「追籠」たことを報じ、「其口、政宗と相談し、油断無き行等、分別尤に候」といっている。
 おそらく、この第六報が義光の手もとに届く前のことと思われるが、上杉景勝の老臣直江兼続が最上領へ侵入してきた。九月十三日には、山形城の支城である畑谷城が攻められ、城将の江口五兵衛父子が殺され、水原親恵率いる上杉軍はその勢いで長谷堂城を包囲しているのである。
 上杉軍の猛攻を支えながら、長谷堂城が破られた場合、本拠山形城も危なくなると判断した義光は、長子義康を政宗の本陣北目城に人質として送り、援軍の要請をしている。
 結局、政宗は自分の名代として伊達政景を援軍に送り、最上・伊達連合軍有利な状況となった。その長谷堂城の攻防戦の最中、具体的には九月三十日の朝といわれているが、関ヶ原での東軍勝利の報が最上陣営に届けられ、ついに、十月一日、長谷堂城攻囲の上杉軍が撤退したのである。

■執筆:小和田哲男/静岡大学教育学部教授・文学博士(2000年執筆当時)・静岡大学名誉教授 (2009年) 「歴史館だより�7」より
2009/09/01 09:53 (C) 最上義光歴史館
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