最上家をめぐる人々#5 【義姫/よしひめ】:「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
最上家をめぐる人々#5 【義姫/よしひめ】
【義姫/よしひめ】 〜戦陣の間にすわりこみ……〜


 山形城主、最上義守の娘として、天文17年(1548)に生まれた。義光は2歳年上の兄。年齢の近い兄妹ということで、二人は仲が良かったらしく、後年の手紙などをみると、互いに心を打ち割って音信を取り交わしていたことがわかる。
 父義守が、最上家を守り発展させてきた経過をもそれなりに見聞きしたせいであろうか。
世の平和を願う心は、人一倍強かったらしい。
 たぶん1565〜6年のころに、米沢伊達家の若い当主・輝宗にとついだらしい。政略結婚といえば言えるかもしれないが、東北地方南部の名門最上家が、実力派大名の伊達家と縁組をするのは、戦乱を未然にふせぐためにも重要な方策であった。もちろん伊達家としてもありがたいことだった。米沢では館の東に住まいしたために「お東の方」と呼ばれ、自分でも手紙などには「ひがし」と署名した。
 永禄10年(1567)に、男児を出生。これが梵天丸で、後の仙台藩主伊達政宗である。次子は小次郎。
 米沢時代の伊達家の記録には「お東の方は、日ごろ時世の乱れを見ては、国が安らかに繁栄するよう心にかけておられた」とあるように、平和を求める気持ちの強い女性だった。
 ところが非情の戦国、争乱は身近に頻繁に発生する。
 天正2年(1572)には、実家最上家で、父・義守と兄・義光の争いがあり、夫・輝宗は義守方に味方して上山、楢下、狸森、畑谷などに兵を出した。戦闘は小規模なものだけだったが、それでも半年ほどごたごたと続いた。九月に乱は終息。
 義姫がこの時何を考え何をしたかはわからないが、身内同士が戦いにうつつを抜かす状態には、ほとほと愛想を尽かしたのではなかったか。
 結婚後20年ほどのちの天正13年(1585)、38歳で夫を失う。
 しかも、夫の死は、息子が当の立役者になっていたのだ。輝宗が宿敵畠山義継に、拉致連行されようとしたとき、追跡した政宗軍の鉄砲隊の乱射によって、義継ともども、夫も死ぬ。息子の命令で夫が殺されたと知った義姫が、どれほど悔やしんだか、はかりしれない。「戦いは、もう、たくさん」というのが、彼女の偽らざる心情だったろう。
 ところが、彼女の心を踏み付けにするような事態が、兄・義光と息子・政宗の間に発生したのである。
 天正16年(1588)、政宗が大崎領を攻めたとき、義光は妻の実家であることもあって、こちらを援護した。「敵の味方は敵」である。政宗は伯父・義光に刃を向けてきた。
 最上領・伊達領の境界、中山(現上山市南部)で、両軍がにらみあい、一触即発の状態にたちいたったとき、義姫が輿に乗って割り込んできた。両軍の間に仮住居をしつらえ、そこに起居して、兄と息子とに兵を引くように迫るのである。
 この期間およそ80日に及んだことが、義光が書き残した数通の手紙で確認される。で、結局、この戦いは両方が手を引くことで決着する。
 身を挺して戦いをやめさせた平和の女神、という比喩はともかく、戦国の世にありながら、戦いを憎み、和平実現のために自ら行動した女性として、大きく顕彰されてよい人物だろう。
 ところが、この義姫については、悪いうわさが意図的につくられた形跡がある。次男小次郎を愛するあまり、長男政宗を毒殺しようとした。それに失敗して、実家である山形に逃げ帰った。冷酷、不届きな女性だ、云々。
 だが、世に知られたこの話は、最近明らかにされた史料によって否定されている。それどころか、義光・政宗という大人物が二人とも、どういうわけか、義姫に対しては綿々と心を打ち明け、あるいは、すっかり頼りきっているような、そんな手紙さえ残っているのである。
 政宗が朝鮮に渡って苦労をしているとき、ねんごろな手紙と黄金3枚を送ったことは有名な事実である。その時の義姫の手紙は残されていないが、政宗が書いた返事は、仙台にしっかりと残っている。手紙をもらった政宗の感激、喜び、異国で苦戦している様子、家来たちが死んでゆくつらさなどとともに、母親に一目あいたいという息子としての願いも、しみじみとうかがわれる手紙文の傑作だ。
 義姫が、伊達の本拠地であった岩出山から山形にもどったのは、文禄3年の冬であった。
彼女が山形に帰って来た事情は、残念だがよくわからない。兄の配慮で、村木沢の悪戸や南館の館で暮らしたことは事実であろう。
 慶長5年(1600)、上杉軍が最上領に侵入したとき、義光は9月15日に嫡男義康を走らせて伊達政宗に援軍を要請した。16日の返事はOKだったが、肝心の軍勢がなかなかこない。しびれを切らした義姫は、19日卯の刻(午前6時ごろ)、援軍の早い到着を求めて、みずから緊急の手紙をしたためる。かまわずに置けば山形が滅亡するかもしれない怱忙の間である。文字はなかなかの達筆。簡潔ながら文面には心情がほとばしっている。
 「ここもとへ御越えのよし、御大儀、満足申し候。とてものことに一足も早く早く、御越え候べく…修理(義康)親子も待ち入り申し候、いそぎいそぎ、とくとく…」
 幸いに、伊達の援軍は22日に山形に到着。月末に関が原で上杉家の加担した西軍が敗れた報せを受けて、上杉軍は撤退し、山形は助かる。男同士の表向きの折衝だけでなく、義姫の懸命な動きも、伊達側を動かしたことは確かだろう。
 元和8年(1622)、最上家の没落を機に仙台にもどり、保春院にはいって、翌年76才の長寿を全うした。墓は北山覚範寺にある。
 村木沢の旧家加藤家には、義姫の愛用品だったという優雅な横笛や迫力ある能面が秘蔵されており、彼女がまつった阿弥陀堂も近くにある。また南館の神明神社付近には、義姫居住時代の面影が、いまもかすかながら残っている。
■■片桐繁雄著


2008/04/30 13:54 (C) 最上義光歴史館
|管理運営 / 最上義光歴史館|当サイトについて
Contents 204件 Today 54件 Yesterday 93件 Access 1,413,179件